彌陀寺の歴史

大高町誌によると宝永六年(1709)10月、春江院六世性印の開基と伝え、古くは十王堂・阿弥陀堂と称し、 春江院の末寺で昭和17年3月31日に寺号を称するにいたりました。
当山では古来より明治年間にかけて、虫供養と称する法要が行なわれ、それは大高川岸に仮小屋設け、仏像の掛図を掲げて 参拝させていたそうです。

弥陀寺は昭和21年の宗教法人令によって寺に改められましたが、もとは弥陀堂といったそうです。江戸時代 には道場と記されていて、宝永6年(1709) 10月春江院六世印の開基と伝えられています。 しかし寺内の十王堂は寛文覚書にも記されていて、浄土信仰の面影をしのばせています。この堂は古来、 村の各種の会合に利用され、またこの弥陀堂は知多郡西海岸一四ヵ村の虫供養の行われていたところだそうです。現、門田橋はもとは塔婆橋と言われていました。虫供養の供養塔婆で架けられたものです。虫供養は一年ごとに組内各村を巡り、当番の村は、正月7日供養の本尊である三尊の阿弥陀仏 (伝恵心僧都筆)を開扉し、8月彼岸入りの日に供養場を設け、念仏和讃を鉦太鼓で執行しました。この法会 は俗人だけで僧侶は関係せず、中央に大きな仮屋を構えて、念仏の供養場とし、小仮屋三構を建てて 安置していました。本尊は甲州武田家の武士青木将盛(後法楽大夫将盛という)が、後に徳川氏に仕え、大阪落城のとき秀吉が帰依していた三尊仏をもってきて本郡村に隠居して死去したが、将盛がこの三 尊を寄付したのだそうです。この虫供養は明治の中ごろから村ごとに行なうことになって、次第にすたれていきました。

※老朽化により倒壊の危険があったため、現在更地になっています。再建計画はありますが時期未定です